TEXTILE DIVER 布を探しに

布につながるすべての感覚をひろげて 

「筒型の布と四角い布」 布う



「筒型の布と四角い布」

2011年6月24日(金)~7月3日(日)   12時~18時



布う

神奈川県中郡大磯町高麗2-17-48  T&F0463・61・8644



徒歩:大磯駅から焼く17分

バス:大磯駅から平塚行きにて5分「花水」下車

    平塚駅から3番線大磯二宮国府津行きにて7分「花水」下車

           3番線松岩寺息にて7分「花水橋」下車







筒型の布は「サロン」と呼ばれる民族の女性用スカート。

布を直線で縫い合わせて出来上がり。

腰の調節も、丈の長さも自由自在。

四角い布は世界共通の万能物。

纏っても、巻いても、包んでも、掛けても変幻自在。

布もいろいろ、人もいろいろ、だから世界は面白い。

一枚の布を探しにいらしてください。



                                   ティモール テキスタイル  岡崎真奈美

           (6月24・25・26・30日 7月1・2・3日 在廊)

  



機織りをするサウの横に座り込み、飽きることなくいつまでもその仕事を眺めている。

藍・茜・黄に染めた、手紡ぎ木綿糸を機に掛け、

土地の言葉で“ソティス”と呼ばれる経紋織りの織物を織っている。

高い椰子の木が大きく影を落とすお気に入りの場所で、大地に茣蓙を敷き足を投げ出して織りをする。

機は一方を木に括りつけ、もう一方を自分の腰に回した腰帯で全体を支えてる。



サウは20代後半の大きな瞳をしたとても物静かな女性。

話をするときも、ささやくような声でゆっくりと話し、水汲みや畑仕事の労働もとても優雅で、機を織る彼女の姿は堂々とゆったりとしている。



右からよこ糸を通し、刀杼を入れてよこ糸を打ち整え、今度は左からよこ糸を通し、刀杼を入れてよこ糸打ち整える。

よこ糸を打つ刀杼の音は、木々や風や鳥のさえずりと溶け合い、村中に緩やかに響く。

たて糸のコンデションは腰帯から腰で感じているようで、目と手はよこ糸を通す作業に集中し、

両足はたて糸、よこ糸の両方に注意をかけているよう。

一人の織手の体がばらばらに機能し、その一連の動作の繰り返しが機になり織りになり、

彼女の呼吸、鼓動、感覚、感情のすべてが糸に、機に注がれる。

ティモールで日常的に見られる織りの風景は非日常的な行為なのかも、

機に向かう女たちの周りには少し違う時間が流れているような感じ。



継承される文様を昔から変わらない伝統的な機を用い今もなお織り続けることは、

民族の源流を遡る旅の時間を意味するのかも知れない。

機は彼女たちと祖先を結ぶ仲介の役割を持っているのかも?



サウの手と体はなんの迷いもためらいもなく織り続けてゆく。



機の傍はとても気持ちよくいつまでも座り込んでいたい、

織女たちを通じて、いにしえの波動が伝わってくるような・・・・。

きっと、サウはそのことを知っているのでしょう。







ティモール テキスタイル Colume No.008/2006.12 [ 機]より

スズメ

古いビルの4階の、南向きの仕事部屋の窓辺にスズメが立ち寄る。

多分、わたしが住み始めるずっと以前からこの窓辺はスズメの遊び場になっていたのだろう。

朝の日差しと共に来ることもあれば昼近くのこともあり、スズメにとっては予定通りの行動なのかも知れないが、

こちらからすると特に決まった時間はないように思える。

一羽のときもあれば、友達が一緒のときもあり、アルミサッシの上を歩くカサカサ・カサカサという足音と可愛らしい声が聞こえ、

スズメはやはりチュンチュンと鳴いている。いつも忙しそうで滞在時間はきわめて短い。

そんな時は、曇りガラスの向こうの茶色い小さな影を仕事の手を止めて見ている。



残りご飯があるときには、米粒を一列アルミサッシの上に並べておく。

スズメはやってきて、足音と鳴き声に嘴で米粒を啄ばむ音が交じり合う。米粒があることを仲間に知らせに行くのか、何羽かが交代でやってくる。

留守をしたときには、帰ってきて窓を開けて見る。米粒がきれいになくなっていると安心する。「来てくれてありがとう」

窓辺の米粒並べはもちろん気の向いたときだけで、スズメもそんな期待もしていないであろう。何の約束事もない気楽な関係。



わたしが勝手に米粒を並べているだけだから、スズメからは特に要求もなければ、変な言い方だけど感謝の言葉もない。

でも、もし並べた米粒をスズメが啄ばみにこなかったら、米粒がいつまでも窓辺に残ったままならば、

あれっ、どうしたのだろう?と心配になり、なんだか悲しくなるだろう。

こちらは気まぐれに米粒を並べているのだから、スズメも気まぐれに食べに来ても来なくてもよいはずなのだけど・・・。

考えると、わたしのほうがスズメに期待している。必ず来て食べることを信じ願っていた。

そしてスズメはいつもその願いを受け入れてくれている。



アフリカの民族のなかには、物をあげたほうが「もらってくれてありがとう」とお礼を言うという。

もし、お礼の言葉がなかったらもらった側は「もらってあげたのにお礼も言わないなんてなんて失礼な人なのだろう」と。

日本では、もらった方が「ありがとう」とお礼を言う。



日本の昔にも、物をもらうほうが優位な関係もあったようだ。

それは托鉢僧であり、旅人(客人)であり、そして乞食であった。

物をあげる方はあげることで、違う何かを受け取った。

それはご利益といわれる物であったり、知らない世界の新しい出来事であったり、

施すことにより、良いコトも悪いコトも分け与え、移し変えることができる、

人の暮らしを、人と人の関係を滑らかにするシステムのようなコトがそこには機能していたのかも。



米粒を並べて餌を施しているつもりのわたしは、大袈裟な言い方かも知れないけどスズメに救われている。



刀杼

ティモール島、アトニ人の言葉で“セヌ”と呼ばれる刀杼。

刀杼とは、よこ糸を打ち込むための機の道具で、硬質な木を削り出したカタチはまさに木の刀のよう。



腰機での織りは、たて糸の掛かった機の一方は地面に打ち込んだ杭や家の柱に固定し、

もう一方は地面に足を投げ出した姿勢で座り込んだ織手の腰に回した腰帯で機全体が支えられる。

たて糸の引き上げや張り具合、よこ糸の挿入と刀打の打ち込みなど、

すべての操作は機とひとつになった織女の身体と感覚によって行われる。



鋭利な刃物のように黒く光る刀杼を空中で右手に構え、地面と水平にたて糸に滑り込ませる。

その姿には武道家の舞のような気迫と緊張があり、その後に“ドンドン”とよこ糸を打つ重たい音が続く。

糸一本分、織物は前に進んだ。



織るって何だろう?モノを生み出すってどうゆうことだろう?

刀杼はその答えを知っているのかも。