TEXTILE DIVER 布を探しに

布につながるすべての感覚をひろげて 

「布を探しに」  インサナの美しいサロン



「素晴らしいサロンを持った女性が来ています。そのサロンを売りたいといっていますよ、とても高価ですが。」



部屋で布を拡げて見ていたわたしに、家の人が声を掛けてくれます。





薄手の既製品の格子のサロンを巻いた女性は入り口の椅子に腰掛け、ここの家とは多少なりとも血の繋がりがあるようで、

布を探しているわたしが家に泊まっていることを知らされ訪ねてきたのです。



挨拶をして握手をすると、プラスチックの紐で編んだ籠のなかから布の包みを取りだしました。

それは近頃ではほとんど見ることはない、正装用、儀礼用の美しいインサナの腰衣でした。



3枚の布を筒状にして縫い合わせ、

一段目は手で細く撚った木綿糸を藍一色で織り上げ、上のわずかな部分に赤・橙・ピンク・黄色・薄緑の線が入り、

その細い線のなかに点々の絣模様が入っています。藍の匂いの残る藍色は匂いだけではなくその色までが手に写りそうなほどです。



二段目にはカイフと呼ばれる鉤文を連続させた幾何学文が、上品なこげ茶のなかに描かれています。

鉤の先端から一本一本までが白い線で乱れることなく整然と表現され、絣模様のなかは茜で色付けされています。



そして、この腰衣を愛らしく華麗に豪華にしているのは、なんといっても三段目の裾部分のブナ(縫取織)の飾りです。

一段目と同じ手紡ぎ木綿を藍に染めた糸を地織りとして、その地織りがすでに見えないほど隙間なく模様が入っています。

表現されているのは、二段目の絣と同じ鉤文を連続させた幾何学模様ですが、

ブナの技法は地織りのたて糸に装飾のよこ糸を巻きつけて模様を積み上げて行くので、

刺繍と見間違うほどの多彩な配色が可能で、表裏はほぼ同じになります。

ほぼ同じというのは、表は飾り糸がたて糸にたいして平行に、裏はたて糸にたいし斜めにかかってゆくからです。

ブナの糸には一定の色が使われていますが、見れば見るほどひとつ一つの菱形の配色が微妙に違って、

クルクルまわる万華鏡のような変化と楽しさがあります。



こんな素晴らしい布を今日ここで見ることができるなんて、なんて幸せなことでしょう。

織りの技術も絣の技術も色の配色も、そして糸の風合いもすべてが絶妙なバランスで完成されています。

「自分で織られたのですか」とたずねると、

50歳前後と思われる女性は「そうです、若いときに織ったものです」





オランダから独立する前は、王国制度が西ティモール島を支配していました。

西ティモールの布の文様や技術を理解するときには、この王国単位の区分が一番分かりやすく、それは王国ごとに異なった文様を持っていたからです。

古い時代にはどこの王国でも、一般庶民が力や魔力を持つ文様や凝った織りの布を纏うことは禁じられていました。

インサナのこのブナも王族やメオの戦士の一族だけが飾れる技法で、

インサナの王は村のなかから腕のいい娘を選び指導して王族のための布を織らせたといわれています。

オランダから独立してインドネシアになり、王族の力がどんどん弱くなるに従って、

村人が自由に腕を競い美しい布を織ることができるようになったようです。





最近の西ティモールの若い女性は、結婚式で白いウエディングドレスを借りて着ることを望みます。

この素晴らしい腰衣もほんのすこし前まで、望まれ結婚式で貸し借りされたといいます。

すべての女性が高度な技術の布を織れるわけではないのです。



新しいモノ、新しい習慣、新しい価値観がどんどんこの島にも押し寄せてきています。

自分の織りの技術に誇りを持ち、大切に保管してきた布も、

いまでは彼女自身もそして周囲の人々からも以前のような布に対する敬意と価値を見出すのが難しくなってしまっているようで、

そんな気持ちが彼女に布を手放す決心をさせたのでしょう。

古いモノではなく新しいモノがほしいのです。





彼女は間違いなく王族の血を引く女性です。



わたしは彼女にお礼をいい、布を抱きしめて部屋に戻りました。

「あなたの、布の素晴らしさに心から感動してくれる場所に一緒に行きましょうね」









trans(trance) FASHION ~シェルター型~





フローレス島で開発された一人用シェルター、

ハイクオリティーなファッションセンスと高度なシェルター機能を同時に持ち合わせながら、

食事・睡眠・外出など日常生活でも優れた効果を発揮し、また精神面にも有効な作用があります。

安全で快適で美しいライフスタイルを提案いたします。



もちろんtrans(trance)FASHIONとしても地球上のどこでも充分にご満足いただけます。

一枚いかがですか?

「布を探しに」  テトゥンの村

朝7時、約束の時間にその老人はやって来ました。

細身の身体に小さな紙袋をひとつ提げて。



「ほかの人には見せられないのです」と真剣な面持ちでいうので、

普段は絶対に人を招きいれることはない自分の部屋で、その布を拡げ見せてもらうことにします。。



寝台がひとつ置いてあるだけの部屋の床には30cm角の白いタイルが貼られ、白い布が無造作に掛かる窓から朝の光が差し込んでしました。

老人は部屋の入り口でサンダルを脱ぎ、跪いて手にしていた紙袋を置くと懐から布の包みを取りだします。

その布包みを丁寧に拡げ布の一部が見えたとき「ああ、本物・・・」



その老人とは前日に逢いました。ティモール島のほぼ中央、東ティモールとの国境に面するベル県マラカ地方のテトゥン人の村を訪れたときに。



いつものように村を訪れ、家を訪ね「布を探しています」とここにわたしが着たそのわけを話します。

家の女性は「この村には随分前から布を探しに人が入っていて、もう古いものは残っていないのです」

それでも親切に周辺の家に声をかけてくれ、何人かの女性が布を持って集まり見せてくれました。

布は市場で購入した鮮やかな色糸で、伝統的な技法を用いこの地域の文様が織られていました。

それらの布はお祭りや特別のときに纏うもので、日常の生活で伝統の布を身につけている人は誰もなく、

人々はTシャツにスカート、ズボンを着用していました。

気に入った布が1枚ありそれを分けていただき、布を見せてくれた方々にお礼をいい立ち去ろうすると、

「食事の用意ができていますから召し上がっていって下さい、残念なことに肉はありませんが」

このもてなしは西ティモールを旅しているとどこででも受けます。

突然訪れた人間に食事を出してくれる・・・これを断ることは相手をとても傷つけます。

そして肉のないことを詫びるのです。

出された食事はこの村で作られている陸稲と近くの川で獲ったエビでした。

川は恵みも与えてくれますが雨季になると氾濫しこの一帯の土地を水浸しにしてすべてを奪ってしまいます。



食事中に家の女性が、「老人が外で待っています」と伝えてくれました。

このとき食事を断っていたら、その老人と逢うことはなかったでしょう。



彼は話します。

「布をお探しですか、古い布を? わたしたちには売りたいと考えている古い布があります。ただその布は今すぐお持ちすることはできません。

伝統の家に納めてある布なのでその家から持ち出すための許可をわたしたちの祖先に得なくてはなりませんから。明日まで待てますか?」



そしてわたしは村からほぼ一時間のべトゥンの町に泊まることにしたのです。





白いタイルの上に布を拡げたとき、まるで布の精霊が眠りから覚め舞いはじめたような気が流れました。

深い藍の手紡ぎ糸にレトロスと呼ばれるシルク糸で、それは馬に跨った男性、腰衣を纏い椅子に座る女性、牛や爬虫類の動物文に幾何学文様が

縫取織(スイ テトゥン語)の技法でびっしりと描かれていました。一見刺繍のようにも見えるその布はとても現代的でもありました。

藍の地布は溶けてしまいそうなほどトロトロなのにどっしりとした重さが伝わってくるのです。

小さなほころびが2箇所、それは糸自身が劣化してできたもので、年をとることで細胞自体がエラーを起こしたように。



わたしは恐る恐るどのような価格で売りたいのかを尋ねました。

老人は値段を口にすることが悪いことでもあるかのようになかなか答えようとはしません。

しばらくして同じように希望の価格を尋ねます・・・

やっとのことで重い口を開いた老人が言った値段は、日本の高級車一台分の値段でした。

「この布はひとりの人間の持物ではなく一族のものです。みなで話しあった結果の値段なのです、びっくりするような値段ですがそういう値段なのです」



わたしは老人の話から、一族が布を手放すことをとても恐れていると感じられました。

布を売ってお金がほしいという思いと、布を売り払ってしまったことで降りかかるさまざまな問題や不幸や災い、

祖先の怒りを覚悟する、その対価に見合う値段でなければなりません。

布を売ることは祖先を売ること、祖先を喪失することなのです



この布がどのような運命をたどるのか・・・わたしには分かりません。

このままここで一族に安らぎと恐れを与え見守り見守られ朽ちてゆくのか、

それとも世代が変わり祖先をすでに失った人々によりお金にその場所を譲ることになるのか、

どちらであったとしても、それは布自身が決めるのかもしれません。



本来の場所を離れ、永久的に保存される布

生まれた土地で人々と一緒に朽ちてゆく布・・・どちらも本物の布の姿だと思います。























アジア街道"不思議の島々"をゆく~鶴田真由2000キロの旅~

アジア街道"不思議の島々"をゆく ~鶴田真由2000キロの旅~

NHKBSプレミアム にて





世界有数の観光地インドネシア・バリ島の東に、ほとんど知られていない秘境があります。アジア最果ての海域に、大小1000を越える島々が連なるヌサトゥンガラ諸島です。言葉や習慣が異なる30あまりの民族が暮らし、太古の自然や文化が、今も息づいています。島々を巡るのは、女優の鶴田真由さん。これまでに、世界32か国を旅してきたという達人。“未知の土地”が大好きだという鶴田さんが、バリ島から絶海の孤島・ライジュア島まで、2000キロをバスやフェリー、時には漁船をチャーター、1か月かけて旅をしてきました。初めての地で心に響いた瞬間を捉えた鶴田さんの写真も見どころです。この夏、あなたもアジアの不思議な島々の暮らしを体感しませんか!





第1回 8月23日(木) 21:00~22:30

ロンボク島からレンバタ島までを巡ります。



第2回 8月24日(金) 21:00~22:30

スンバ島からライジュア島までを巡り、女性の暮らしを見つめます。







NHK夏の特別番組紹介より





呪術師







「これとこれは象牙だけど、あとはみんなプラッスチックだよ。市場で買ったんだ」

象牙の腕輪は象牙と同様、結婚時に男性から贈られるもののひとつです。





インドネシアで“ドゥクン”と呼ばれる呪術師。

彼女は染めや織りに精通し、村医者として人々の病を治療します。





東フローレス 



布と象牙の交換

「息子がレンバタ島から嫁をもらうとき、このぐらいの象牙を左肩に背負って右手には山羊を一頭引いていったよ」













「嫁さんのほうからはほれっ、このサロンが代わりに贈られたよ」









アドナラ島





食べ物のタブー

インサナのいつもお世話になっているナイコフィ家では、

半年前に結婚した3番目の息子グスティンに女の子が生まれていました。

生後1ヶ月と2週間、布に包れ母親にしっかりと抱かれている赤ちゃんに挨拶しようと顔を覗き込むと、

左頬と額、頭の後ろに大きな腫れ物があり、驚いているわたしに、

「昨日からなの、今は眠っているけど痛みで泣きつづけ夜寝ることもできないのよ」

なにが原因でこんな小さな身体に痛々しい腫れ物ができたのかを聞くと

「知らないで間違った食事をしてしまったの」

一ヶ月ほど前、子供が生まれてから夫婦揃って奥さんの実家で食事をしたときに出された物のなかにその間違った食べ物が入っていたといいます。

食事をした数日後にまず二人の身体に吹き出物が出来それは膨れ上がり、その後赤ちゃんにも同じ症状が出だし、母乳から感染したのだと。

赤ちゃんを抱く彼女の左手と左脹脛にはまだその吹き出物の痕が痛々しく残っていました。



この家の姓はナイコフィ。ナイコフィの姓には代々食べてはいけない食べ物のタブーがありこれを犯すと死にいたることもあると。

このタブーのことは「ポマリ」と呼ばれ、ポマリは結婚して姓が変わった妻にも摘要されるのです。



なにを食べてなにを食べないか?

ヒンドゥー教は牛を聖なるものとして食べることを禁じ、

イスラム教は豚を不浄なものとして食べるのを禁じました。

また宗教が禁じていなくても伝統やその地域の習慣により、例えば馬を食べる人々と食べない人々、犬を食べる人々と食べない人々などのタブーもありますが、

現代の一般的な食のタブーは総じてキリスト教的な西洋の影響を強く受けているように見えます。



危険ないいかたをすると命を維持することだけを考えれば人はなんでも食べてよいはずなのにどうして食のタブーがあるのでしょうか?

なんでも食べれるではなく、なんでも食べないという考え方はどうして生まれたのでしょう?



個人の嗜好ではなく、姓によって食べてはいけない物がポマリとして定められた背景にはなにがあったのでしょう。

この人たちは食べても良いけどこの人たちは食べてはいけないというような、外の圧力による食物配分の働きなのか、

あなたたちは食べるけどわたしたちは食べませんという自主性によるポマリなのか?それともアレルギーなのか?

ティモールのような食べるもの限られた場所における食のポマリは何によって決められたのでしょう。



美味しいものがなんでも食べれるわたしたちの社会において、好き嫌いではなく自分で自分の食にポマリを持ってみるのはどうなのでしょう・・・。





ナイコフィ家の腫れ物騒動の原因はプリヤと呼ばれる野菜でそれはニガウリのことです。

グスティンの妹ラニは「たくさんのポマリがまだまだあって、ティモールで暮らすのは本当に大変よ」



























「マレー諸島」 アルフレット・ラッセル・ウォレス

アルフレット・ラッセル・ウォレスの「マレー諸島」はわたしの布旅を支える大切な一冊です。

彼は今から150年ほど前にティモール島を含む南洋諸島を虫や動物の標本を作りながら旅しました。

その記録をまとめた「マレー諸島」は自然や動植物だけではなく、民族の人間性についての観察や比較の報告も多く、

現在ではインドネシアという国に治まり、急激に変わってゆく風景や人の生活のなかを旅するわたしに、

本当の姿を探り出す鍵を与えてくれます。

またウォレスから学ぶことは150年前のようすだけではなく、彼がこの時代に個人で歩き自前で調査したということです。



15世紀半ばから始まった大航海時代のほとんどは、王侯貴族をスポンサーにした海外進出でした。

ウォレスと同時代で同じイギリス人の博物学者ダーウィンの有名な「ピーグル号航海記」も、

海軍の観測船ピーグル号に調査隊として乗船した記録として書かれたものです。



ウォレスがどのように自前で旅したかというと、蒐めた標本をロンドンに送り売ることで生活を支えていたのです。

もちろん標本が売れたということは当時すでにロンドンに珍しい動植物の標本を取引するマーケットがあり、

それを買い求めるコレクターがいたからこそ成立したのです。



わたしの布旅も現地で布を探し日本に持ち帰ることで成り立っています。

それは布を見せてくれて売ってくれる人がいて、その布を見せて買って下さる人がいるからこそつづけられ、

布から得たお金だからこそまた布へ旅へと戻って行けるのです。

もちろんウォレスは優れた学者であり、時代背景を考えても今の旅を旅と呼ぶにはあまりにもお粗末です。

ウォレスの時代に生まれていたらわたしの布旅など夢に見ることさえなく、今だからできる旅を模索するのです。



布を売ってくださる人と場所があり、布を買って下さる人と場所があり、

この2つのあいだと、2つの前と後ろの全部で5つ時間をひとつにして、それをどんどんひろげすべての人への感謝をお返しできるようにといつも思ってます。



ウォレスの博物学調査の旅では土地の人々との関り方もとても親密で、それは彼が学者としてだけではなく優れた旅人であったからこそ築けたのでしょう。













マレー諸島

アルフレット・ラッセル・ウォレス

宮田 彬 訳

思索社





「布を探しに」 ハウメニ アナ

ハウメニ アナは西ティモールの北部海岸に飛び地した東ティモール領アンベヌとの国境沿いの村です。

“ハウメニ”はアトニ人のダワン語で白檀、“アナ”は小さいなので「小さなビャクダン」という意味です。

ティモールは白檀の産地で、ポルトガルやオランダがこの島にやってくる前から、アラブ人や中国人がこの木を目当てに訪れていました。

当のティモール人の生活のなかには、白檀に対する特別な思いや使い道はなかったようで、

それはティモール島を含むこのあたり一帯の島々が、胡椒や丁子、バニラやカカオなどの香辛料諸島であったのにもかかわらず、

現地の食文化にはなにひとつ取り入れられることなく今日に至っていることを考えても、

なぜ染織文化だけがこれほど抜きんでて盛んに行われてきたのか・・・、

着るというコト、飾るというコト、そして布というモノの、モノとしての象徴性の内側で揺れ動く人々のこころがフツフツと布に湧き出てくるようです。





ハウメニアナでは毎週土曜日に市が立ちます。

市の日には国境を越え東ティモールのアンベヌからも人々が買い物に来て、織物を携え売りにくる人もあると聞かされていました。

この国境は毎日8時から16時まで、インドネシア人と東ティモール人には開かれていますがそれ以外の外国人の出入りは認められていません。



道路を挟んで北側の東ティモール領の方を見渡すと赤い屋根に白い壁の建物があり、赤を基調にした国旗が風に吹かれています。

それは東ティモールのイミグレーションで道路脇に東ティモールへと続く道を示す門があります。



市のなかを歩き回り、布を纏う人の文様やどこの村から来たのかを聞きながら、布をティモールの布を探してることを話します。

「家にあるから持ってくる」「サロン(女性用の腰衣)でもいい?」「近いから、あとで家に来て」

そして、東ティモールのアンベヌから来ていたと思われる男性は「向こうには一杯あるよ」

家にあるから、近いから、持ってくるから、一杯ある・・・

家にあるといわれて訪れてみても思うような布ではなかったり、近いからといわれて行ってみると随分遠かったり、

持ってくるといわれて待ってみても誰も来なかったり・・・けして村人が悪いのでも嘘をついているのでもありませんが、

こんな訓練を繰り返すとだんだん勘が磨かれて、「よし、行ってみよう」「ウン、待ってみよう」と

誰のどの言葉を信じるか、ちょっとした賭けのようなものなのです。



正午近くになり市もそろそろ引けてきて、すべての人々が帰り支度を始めます。

わたしの今日の一番の賭けは東ティモールから来ていた男性の言葉。

立ち入ることの出来ない、東ティモールへの道へと続く門の前で待ちます。

来なくて当然・・・もし来たら・・・。

今晩の宿までのことを考えるとそろそろ移動しなくてはなりません。



彼は来たのです。

一杯の布ではなかったけど、大きな、スリムットと呼ばれる布を2枚抱えて、

どちらもワニともトカゲとも思える文様で、しっかりとした手紡ぎ糸で織られていました。



「まだ向こうには一杯あるよ」と彼は繰り返し、「今度はいつ来るの?」と尋ねます。

インドネシアルピアで支払いをし、会話はすべてインドネシア語、

西ティモールの人々と少しも変わったところはない多分アトニ人と思われる彼はインドネシア人ではなく、東ティモール人なのです。



東ティモールの貨幣はアメリカドルで、公用語は東ティモールの主要民族テトゥン人のテトゥン語とポルトガル語。

ポルトガル語で唯一知っている言葉「オブリガード」(ありがとう)といってハウメニ アナをあとにします。











美しいマヌ(鶏文)の絣を纏う ミオマフォバラット マヌサスからきていた男性