TEXTILE DIVER 布を探しに

布につながるすべての感覚をひろげて 

アルファベットの文様

「母が織ったものです」と見せてくれた古いサロン(筒型の女性用スカート)にはアルファベットの文字が織り込まれていた。

織った女性はすでに世を去り、長男家族がその布を大切に保管している。

3枚の布を繋ぎ合わせ筒型に仕上げたティモールの伝統的な形式の女性用の衣は肩まですっぽり隠れてしまうほど長く、機械紡績の糸を用いて織られていた。

上部は黒の無地、中央部は繊細な幾何学模様が絣で括られ、そして下部には縫取織の技法で鮮やかな文様が織り込まれている。



見ると下部の縫取織の文様の間にアルファベットの文字が織り込まれている。

何か意味があるのかと持ち主に尋ねると、両親のイニシャルだと教えてくれた。



JBS:JUH(Uの文字はさかさまになっていた)と3度繰り替えし、

Jはヨハネス、Bはベリー、SはどうやらZの間違いのようでそれはサカを意味する。

そしてJUHは、ヨハネス・ウルク・ハキ。



学校で学ぶことが当たり前ではなかった時代に、字を少し覚えた男は結婚相手の女に2人の名前を入れることを頼んだようだ。

そう両親から聞かされたと話してくれた。

字を持たないのだから字を書く紙もなく、地面か木を引っ掻いて布に織りこみたい名前のイニシャルを夫は妻に伝えたのだろう。

伝えたほうが字を間違えて伝えたのか、それとも織ったほうが字を間違えて織り込んだのか?

どちらにしても、本人たちにとっては大満足だったであろう。



伝統的な文様を織れその意味を知っていても、言葉を表す文字を持たなかった人々にとって自分たちの名前を直接布に織り込むことは、

とても新しい試みで、多分織りの上手い女性であったと思われる。それを見て新しい文様と思い真似しようと試みた村人もいたかも。

両親の名前の織り込まれた布は、今でも家族の手元で大切にされている。



文字の織り込まれた染色品は世界中で探すことが出来る。

漢字では一文字で願いや祈りを表すことが出来るので、字がそのままの形で布に描かれ、

漢字を知らない人にとっては文様として映るだろう。



アメヤ横丁に行くと、面白い言葉をプリントしたTシャツが売られているが、

その日本語をプリントしたTシャツはインドネシアのお土産にとても喜ばれる。

書いてある言葉には充分注意していつも選んではいるが・・・

「なんて書いてあるの?」と聞かれて答えられないのでは困ってしまう・・・。









タニンバル諸島 ヤムデナ島周辺の腰衣と思われる。

NやRはひっくり返り、一見アルファベットに見える文字は自然に文様に移行している。誰に聞いても意味不明であった。





“TIMOR TIMUR HATO-UDO”これは東ティモールのアイナロに在る地名HATO-UDOが織り込まれている。

ロスパロスとキサールの布のこと

東ティモールは13の県からなり、その一番東端にラウテン県はある。

ラウテン県には4つの言語があったと言われ、

ルロのマカサエ、そしてロスパロスのファタルク、イロマのマカレロは今でも現地で使用されていると教えられ、残りのひとつはすでに失われてしまったと。



このラウテン県の織物は東ティモールの中でも特に有名で、ロスパロスの布として知られている。

「どうしてラウテンではなくてロスパロスの布と呼ばれるのか?」そんな質問を出合ったラウテンの人に投げかけると、

「ロスパロスのほうが言葉の響きがいいからではないか・・・」と答えが返ってきた。



言葉から連想されるイメージ、確かに声にしたとき“ラウテン”より“ロスパロス”のほうが響きが良く、エキゾチックが雰囲気がある。

また、ロスパロスのファタルク語を話す人々の織物がラウテンの織物のオリジナルとも考えられるし、

地名としてロスパロスが最初にあり、行政区分でラウテンが後から名づけられたとも考える。

どちらにしても、ひとりで答えを見つけるにはまだまだ時間が掛かりそう、まあ織物を探しながらゆっくり答えも探してみよう。



このロスパロスの東端にキサール島は浮かんでいる。

ロスパロスからキサールまでは船で2時間ほどだが、

キサール島はインドネシアのマルク州に含まれるので、東ティモール独立後はロスパロスからの行き来は出来ない。



ロスパロスとキサールの関係は深いく、それはそれぞれの織物にも顕著に現われている。

キサール島の織物で有名なオイラタ村は、ポルトガルの植民地統治から逃げ出したロスパロスからの移住者が多く住み、

ロスパロスの元の王はオイラタと密接な関係を持ち、村の支配者に彼の娘の一人を嫁に与えたというから血の繋がりもある。

また東ティモール独立寸前の1999年、インドネシアと東ティモールとの関係が緊迫した状態になったときにも、

ロスパロスから逃げ出してきた人々をキサールの人々は暖かく迎えたという。



国境という見えない線は人と文化を簡単に分断してしまう。





ロスパロスの女性用腰衣部分



キサールの女性用腰衣部分





両方の布の右端にはトンパルと呼ばれる鋸歯紋が、左端には8つの角を持つ星の文様が絣で表現されている。

この2つの文様からはインド染織の影響がうかがえる。



一枚の布を読み解くには、膨大な時間の旅をしなければならない・・・。







地図「EAST OF BALI」PERIPUS TRAVEL GUIDESより













バウカウの行商人 ~東ティモール~

バウカウは首都ディリに次ぐ東ティモールの第2の町で
コタ ラマ(古い街)とコタ バル(新しい街)の2つの地区に分かれている。
コタ ラマには1960年に建てられたピンクの外観のホテル“Pousada de Baucau"を中心に、ポルトガル植民地時代の面影が残る。
ホテル近くに頭に肩にと布を担いでいる男の姿があり、声をかけて呼び止めると男は観光客目当てに布を売る行商人であった。
荷を開いて見せてもらった布はすべて新しい布ではあったが、
それぞれの布の産地を訪ねてみると、“バウカウ”“フィッケケ”“マリアナ”とさまざまで、
当の本人はどこから来たのかと聞いてみると、「エルメラから来た」と答える。
エルメラはディリの南西山間部でここバウカウは北東海岸に位置するので、東ティモールの3分の2ほどを移動してきたことになる。
途中で立ち寄った場所で布を交換して、色々な産地の布をバウカウの町で行商をしているのだ。
バウカウの町で2人の行商人に会ったが、彼らは共にエルメラの人間であった。

首都ディリには東ティモール各地の織物を売る店が集まった“タイスマーケット(織物市場)”がある。
30件ほどの小さな小屋が並び、正面は店で裏は住まいになっていて、商いも食事も睡眠も子育てもそして機織も・・・すべてここで行なわれている。
一軒一軒の店を端から順に布を見せてもらい、布の産地を訪ね、そして店の人の出身かを聞くと皆ボボナロのケマック人だと答える。
どうやらディリのタイスマーケットはケマック人の共同体によって運営されているようだ。ひとつの民族が専門的に物を扱っていることは良くある。

 


バウカウの行商人

ディリのタイスマーケット

バウカウの海 ~東ティモール~

16世紀、まだティモールとは呼ばれていないこの島にはじめてポルトガルの船が現われたときも、

漁師たちはいつものようにただ浜で仕事をしていただけかもしれない。