人類の起源はアフリカにある。
そして、そこから一番遠いところまで旅したのはモンゴロイド、わたしたちの祖先である。
彼らはアフリカを離れユーラシア大陸を横断し、凍ったベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸まで到達した。
それはアフリカからは5万キロ、長く住んたアジアからは一万年以上かけての旅であったといわれている。
なんと偉大な旅だろう。
一方、アフリカから一歩も出なかった人々が現在のアフリカ人の祖先ということになるだろう。
残った人々と旅に出た人々、何がこの両者を分けたのであろうか、アフリカの大地に選ばれた人々と新天地に向けて送りだされた人々・・・。
移動し続けたこともすごいけど、同じ場所に住み続けたこともすごい。
アフリカとアジア、身体的特徴や性格、住む環境は今ではまるっき違うけど、
ミトコンドリア・イブと呼ばれる一人のアフリカ人女性のミトコンドリアDNAをわたしたちは同じように持っている。
人類の起源はアフリカにある。
ちょっと大げさかもしれないけど「アフリカの衣裳」はアフリカに残ったわたしたちの祖先が作り出した衣裳。
長い時間をアジアで日本で暮らし、からだの中に封印されてしまったミトコンドリア・イブのDNAの記憶が
アフリカの衣裳に反応するかもしれない。
一枚一枚素晴らしいアフリカの布にぐるっと囲まれて、
どんな化学反応がからだに起こるのか、感覚の実験だけではなくそんなからだの実験はどうだろう。
「目覚めよわたしのなかに眠る原始の力」こんな呪文を心のなかで唱えてみる。
「アフリカの衣裳」
岩立フォーク テキスタイル ミュージアムで開催。
第13回展 アフリカの衣装
ー大胆なデザインと繊細な手仕事-
2013年5月2日ー8月17日
展示期間中/木・金・土曜日のみ 開館
岩立フォークテキスタイルミュージアム
[利用案内]
開館時間:10:00-17:00(入館は16:30迄)
入館料:300円
東京都目黒区自由が丘1-25-13岩立ビル3F
TEL:03-3718-2461
縄文人とアトニ人
先日の骨董市で、スラウェシ タナトラジャのいい感じのタパを地面に敷いて、
ティモールの石の顔や骨の面、木偶や面などを並べて商っていた。
商っていたというよりは久しぶりに外に並べて楽しんでいたいたといったほうが正しいかもしれない。
興味を持つ方はけして多くはないので。
レジャー用の折畳み椅子に腰掛けているので前を通り過ぎる人の、
肩から靴までが丁度視界に入り、肩から上の頭部は途切れる。
そんな風景を視線を集中しないでボッーと一日眺めているのも悪くない。
ふっと、紙袋を持った人が目の前に止まったので見上げると、
160×137cmのなかに並んでいるモノをくるっと眺めて荷物を降ろしてしゃがんだ。
ティモール島アトニ人の装飾を手にとり「こんなところに勾玉がある」
そして木偶を見て「縄文だね」と仰った。
その木偶は単純な形で妊婦が彫られ、その膨れたお腹には妊娠線が数本入っていた。
「古いものかい」
「わかりません。ただティモールのアトニ人は場所によって、2013年のこの同じ時間に縄文人のような竪穴住居に近い家にまだ住んでいます」
「縄文は好きかい、この前京橋で展示会をしたからカタログを送るよ」
初めてあった方からカタログが届いた。
今まで美術館や写真集ではその場所を土偶や土器に譲り、
また見る側の記憶に残ることのなかった縄文の欠片がそこには写っていた。
縄文人はいったいどれだけのモノを創造したのであろうか。
日常のモノ、儀礼のモノ、そして造ることそれ自体が祈りの時間であったことは想像に難しくない。
モノを造るということと造られたモノの本当の意味。
時間も場所もまるっきり違う縄文人とアトニ人が、人と物の新たな出会いでまた新しく発見され繋げられた。

個人コレクションによる
「縄文の土偶・石製品」
去来 2013
素晴らしいカタログを頂いた。
ティモールの石の顔や骨の面、木偶や面などを並べて商っていた。
商っていたというよりは久しぶりに外に並べて楽しんでいたいたといったほうが正しいかもしれない。
興味を持つ方はけして多くはないので。
レジャー用の折畳み椅子に腰掛けているので前を通り過ぎる人の、
肩から靴までが丁度視界に入り、肩から上の頭部は途切れる。
そんな風景を視線を集中しないでボッーと一日眺めているのも悪くない。
ふっと、紙袋を持った人が目の前に止まったので見上げると、
160×137cmのなかに並んでいるモノをくるっと眺めて荷物を降ろしてしゃがんだ。
ティモール島アトニ人の装飾を手にとり「こんなところに勾玉がある」
そして木偶を見て「縄文だね」と仰った。
その木偶は単純な形で妊婦が彫られ、その膨れたお腹には妊娠線が数本入っていた。
「古いものかい」
「わかりません。ただティモールのアトニ人は場所によって、2013年のこの同じ時間に縄文人のような竪穴住居に近い家にまだ住んでいます」
「縄文は好きかい、この前京橋で展示会をしたからカタログを送るよ」
初めてあった方からカタログが届いた。
今まで美術館や写真集ではその場所を土偶や土器に譲り、
また見る側の記憶に残ることのなかった縄文の欠片がそこには写っていた。
縄文人はいったいどれだけのモノを創造したのであろうか。
日常のモノ、儀礼のモノ、そして造ることそれ自体が祈りの時間であったことは想像に難しくない。
モノを造るということと造られたモノの本当の意味。
時間も場所もまるっきり違う縄文人とアトニ人が、人と物の新たな出会いでまた新しく発見され繋げられた。

個人コレクションによる
「縄文の土偶・石製品」
去来 2013
素晴らしいカタログを頂いた。
石
ティモール島の地名には“石”のつく場所や村が多くある。
“石”はインドネシア語では“バトゥ”そしてティモール島の先住民族アトニ人のダワン語では“ファト”と言う。
インドネシアの西ティモール最大の街クパンから東に伸びる幹線道路は東ティモールとの国境の町アッタンブアまで続き、
その途中、クパン県と南・中ティモール県との県境にノエ・ミナと呼ばれる河が流れる。
この河を渡りきった場所は“バトゥ プティ”白い石、ここを右に曲がるとティモールの南海岸へと抜ける。
東ティモール独立前まではここは軍のチェックポイントのひとつで、、
バスに乗り込み乗客と荷物を確認する軍人にパスポートを提示しなければならなかった。
今では軍人もパスポートのチェックもないが、この場所にバスが止まるたびに駆け寄り、
水やピーナッツ・茹卵・バナナチップスなどを抱えて売る、そのほとんどがまだ幼さの残る少年たちの姿は変わらない。
“バトゥ プティ”を通過するたびに、きっとどこかに地名に由来する大きな白い石が存在するのだと信じていたわたしは、
バスに乗り合わせた隣人にいつも同じ質問を繰り返していた。
「白い石はどこにあるのですか?」「ただの地名ですよ」
誰に聞いても返事はあまりにも素気なく「きっとよそ者には知らされない秘密があるのだ」とくねくねと曲がりくねった道を行くバスに揺られ、
外の風景を眺めながら同時に夢想の世界に落ちてゆく。
“バトゥ プティ”白い石はティモール人のダワン語では“ファト ムティ”となり、
そのほかの地名にも、“ファト ムナシ”古い石、“ファト レウ”薬の石、“ファト ウラン”雨の石・・・と美しい名前が点在する。
この非火山の島ティモールは石灰石と砂岩、そして頁岩のような強く変形した堆積岩から出来ていて、
島のところどころには奇妙な形をした巨大な岩山が突出した石ころだらけの島なのである。
ある日の暑い午後、ハネ村の物知りアユップの家でビンロウジュ樹の実を噛みながら家族の人たちと話しをしていたところに、同じ村のユサがやって来た。
ユサは重たそうな、石でも入っているのではないかと思える荷物を大切に抱えて少々興奮していた。
「ものすごいモノを見つけたよ」
アユップもわたしも、そこにいた者全員が何が入っているのかと興味一杯で荷を解くのを待ちかねていた。
ところがユサはもったいぶってなのか、それともみんなの顔を見て気が変わったのかなかなか見せてはくれない。
そしてしまいには「やっぱりダメだよ」と。
ユサより年長のアユップは「せっかくみんなに見せようと思い持って来たのだからどうだい見せてはくれないかい」とユサに語りかける。
ようやく姿を現した石のように重たそうな包みから現われたのはまぎれもない“石”だった。
高さ30cmほどの歪な三角形をした石灰石。
「川で見つけだんだ。ほらここに顔があるでしょう、片足が壊れているから安定が悪いけどこれは古くてすごい石像さ」
どう見てもただの石灰石の塊にしか見えない・・・、そんなわたしたちの反応に失望したユサは、
「やっぱり見せるべきじゃなかったよ。このすごさは目のある人にしか分らないのさ」と石像を丁寧に包み直し来た道を引き返して行った。
それからユサはどうしたかと言うと、バスに乗り石像を大切に膝の上に置き3時間以上の道のりをクパンに向かったという。
そして同じ道のりを石像を大切に抱え村に帰ってきたようだ。
クパンの街ににもユサの期待した目のある人はいなかったのである。
その石=石像は今どうしているのだろう・・・・。
考えてみるとアンバランスな形、石灰石のブツブツした表面・・・ちょっとした奇妙さもあった・・・。
川原の石に沸き立つような驚きを発見したユサはひょっとして、
33年間一人で石を積み上げ理想宮を築いたフランスの郵便配達人シェヴァルのように、変わった形の石に惹き付けられてしまったのかも・・・。
だだの石と思えばだだの石で、ただの石ではないと思えばただの石ではなくなる。
石ころをお守りと身に付ければ、石ころは守ってくれるであろうし、モノの力とはそれを所持した人のモノへの思いでもある。
すべてはこちらしだいだ。
ユサの理想郷は実現しようにはないけれど、こんな友人は大切にしたい。

「郵便配達夫 シュヴァルの理想郷」
岡谷公二
作品舎 1992年
“石”はインドネシア語では“バトゥ”そしてティモール島の先住民族アトニ人のダワン語では“ファト”と言う。
インドネシアの西ティモール最大の街クパンから東に伸びる幹線道路は東ティモールとの国境の町アッタンブアまで続き、
その途中、クパン県と南・中ティモール県との県境にノエ・ミナと呼ばれる河が流れる。
この河を渡りきった場所は“バトゥ プティ”白い石、ここを右に曲がるとティモールの南海岸へと抜ける。
東ティモール独立前まではここは軍のチェックポイントのひとつで、、
バスに乗り込み乗客と荷物を確認する軍人にパスポートを提示しなければならなかった。
今では軍人もパスポートのチェックもないが、この場所にバスが止まるたびに駆け寄り、
水やピーナッツ・茹卵・バナナチップスなどを抱えて売る、そのほとんどがまだ幼さの残る少年たちの姿は変わらない。
“バトゥ プティ”を通過するたびに、きっとどこかに地名に由来する大きな白い石が存在するのだと信じていたわたしは、
バスに乗り合わせた隣人にいつも同じ質問を繰り返していた。
「白い石はどこにあるのですか?」「ただの地名ですよ」
誰に聞いても返事はあまりにも素気なく「きっとよそ者には知らされない秘密があるのだ」とくねくねと曲がりくねった道を行くバスに揺られ、
外の風景を眺めながら同時に夢想の世界に落ちてゆく。
“バトゥ プティ”白い石はティモール人のダワン語では“ファト ムティ”となり、
そのほかの地名にも、“ファト ムナシ”古い石、“ファト レウ”薬の石、“ファト ウラン”雨の石・・・と美しい名前が点在する。
この非火山の島ティモールは石灰石と砂岩、そして頁岩のような強く変形した堆積岩から出来ていて、
島のところどころには奇妙な形をした巨大な岩山が突出した石ころだらけの島なのである。
ある日の暑い午後、ハネ村の物知りアユップの家でビンロウジュ樹の実を噛みながら家族の人たちと話しをしていたところに、同じ村のユサがやって来た。
ユサは重たそうな、石でも入っているのではないかと思える荷物を大切に抱えて少々興奮していた。
「ものすごいモノを見つけたよ」
アユップもわたしも、そこにいた者全員が何が入っているのかと興味一杯で荷を解くのを待ちかねていた。
ところがユサはもったいぶってなのか、それともみんなの顔を見て気が変わったのかなかなか見せてはくれない。
そしてしまいには「やっぱりダメだよ」と。
ユサより年長のアユップは「せっかくみんなに見せようと思い持って来たのだからどうだい見せてはくれないかい」とユサに語りかける。
ようやく姿を現した石のように重たそうな包みから現われたのはまぎれもない“石”だった。
高さ30cmほどの歪な三角形をした石灰石。
「川で見つけだんだ。ほらここに顔があるでしょう、片足が壊れているから安定が悪いけどこれは古くてすごい石像さ」
どう見てもただの石灰石の塊にしか見えない・・・、そんなわたしたちの反応に失望したユサは、
「やっぱり見せるべきじゃなかったよ。このすごさは目のある人にしか分らないのさ」と石像を丁寧に包み直し来た道を引き返して行った。
それからユサはどうしたかと言うと、バスに乗り石像を大切に膝の上に置き3時間以上の道のりをクパンに向かったという。
そして同じ道のりを石像を大切に抱え村に帰ってきたようだ。
クパンの街ににもユサの期待した目のある人はいなかったのである。
その石=石像は今どうしているのだろう・・・・。
考えてみるとアンバランスな形、石灰石のブツブツした表面・・・ちょっとした奇妙さもあった・・・。
川原の石に沸き立つような驚きを発見したユサはひょっとして、
33年間一人で石を積み上げ理想宮を築いたフランスの郵便配達人シェヴァルのように、変わった形の石に惹き付けられてしまったのかも・・・。
だだの石と思えばだだの石で、ただの石ではないと思えばただの石ではなくなる。
石ころをお守りと身に付ければ、石ころは守ってくれるであろうし、モノの力とはそれを所持した人のモノへの思いでもある。
すべてはこちらしだいだ。
ユサの理想郷は実現しようにはないけれど、こんな友人は大切にしたい。

「郵便配達夫 シュヴァルの理想郷」
岡谷公二
作品舎 1992年
石に話すことを教える ~アニー・ディラード~
7月15日(月)代々木公園骨董市、このようなものたちと座っております。
どうぞ石に話すことを教えにいらしてください。


写真:顔石に話すことを教えている木人
石に話すことを教える
アニー・ディラード
内田美恵 訳
めくるまーる 1993年
わたしは・・・布に話すことを教えよう・・・
どうぞ石に話すことを教えにいらしてください。


写真:顔石に話すことを教えている木人
石に話すことを教える
アニー・ディラード
内田美恵 訳
めくるまーる 1993年
わたしは・・・布に話すことを教えよう・・・