TEXTILE DIVER 布を探しに

布につながるすべての感覚をひろげて 

2014 ザ・美術骨董ショー 5月1日~5日まで

2014 THE JAPNTIQUE SHOE

ザ・美術骨董ショー



☆美術骨董品・絵画・コイン・貴金属の展示即売会













日時:5月1日(木) 10:00AM~6:00PM

5月2日(金) 10:00AM~7:00PM

   5月3日(土) 10:00AM~7:00PM

   5月4日(日) 10:00AM~7:00PM

   5月5日(月) 10:00AM~5:00PM



会場:東京プリンスホテル 電話(03)3432-1111

   〒105-0011 東京都港区芝公園3-3-1

主催:ザ・美術骨董ショー事務局 電話(03)3470-2103

   〒106-0032 東京都港区六本木5-5-1 ロアビル6F



お手伝いですが、一部布を出展します。

どうぞお出かけください。



オカザキマナミ

ティモール テキスタイル



チャイントンで案内人を探す

久しぶりにチャイントンで案内人と歩いた。

ミャンマー・シャン州の最東端に位置するチャイントンは中国・タイ・ラオスとの国境に近く、

この周辺には多くの少数民族が暮らす。

宿の受付で案内人を手配して欲しいとお願いすると、名詞ホルダーを取り出しめくり始めた。

チャイントン周辺にはおよそ30人の案内人がいるようで、経験や英語のレベルで料金が違うと言う。

顔ぶれは、アカ・ラフ・シャン・ビルマ人と揃っている。



案内人を雇うとき、その案内人がどこの民族かはとても重要になる。少数民族は独自の文化と言語を持っているので、

アカの村を中心に回りたいのならアカの案内人がいいし、ラフの村に行きたいのならラフの案内人が適している。

もう一つ気を付けるのは経験豊富な案内人。経験豊富なのはもちろん良いことなのだけど、

彼らは長くこの仕事をしているので説明が出来上がってしまっていることが多い。

私の疑問をそのまま村人にしてほしいとお願いしても、聞いたところでその質問の答えが充分に得られない場合に、

案内人は自分の仕事をまっとうするため自分の培ってきた知識と経験で応えようとする。

それもけして悪いことではないのだけど、彼らは織りの専門家でも文化人類学者でもなく、

時に案内人として誇りが真実を隠してしまうこともある。



ある人類学者の本に、村人があまりにもこちらの質問に対し望むような答えをする場合は疑ってかからなければならない。

すでに何人もの研究者が訪れ、彼らはこちらが喜ぶ答えを持っているということを知っておく必要がある・・・とこんな感じのことが書かれていた。

これは案内人という職業にも当てはまるのではないだろうか。





何人かの案内人の特徴を説明され、わたしはまだ案内人歴3年のチョウセンというアカの男を雇うことにした。

宿の受付が「アカ族は親しみやすく、チョウセンはとても良い奴です」と助言してくれた。



夕方、打ち合わせの時間にチョウセンの弟だと追う若い男が現れた。

兄は忙しいいので自分が代わりに案内するという。

彼の振る舞いや話し方からは役不足な印象を受けたが、これもご縁と思い弟のタニと打ち合わせをして別れる。



翌日朝食を食べていると、目を真っ赤して浮腫んだ顔のお酒臭い男がわたしを探していた。それはチョウセンだった。

ミャンマーは新年を祝う水掛祭りの真っ最中、どうやら昨日は友達と早い時間から飲んでいたようで、

その隙に兄と同じ案内人になりたい弟のタニがわたしに会いにやって来たようだ。

昨夜、兄と弟の間でどんな話がされたのかは分らないけど、二日酔いのチョウセンがわたしを案内する。

「大丈夫?」「大丈夫だよ」とひとなっこい顔に親しみを感じる。



チョウセンは、ビルマ語、シャン語、そしてアカの言葉に英語を話す。

これだけでも、この周辺の文化がどれほど多様かが想像できる。







2014・04・15 チャイントンで









ニャウンシュエとタウンジーの道のりで

ニャウンシュエからタウンジー行きのピックアップトラックに揺られる。

トラックの荷台に幌を掛け、木のベンチが向かいあって備えられたその隙間にも、

ひとり掛けの小さな木の丸椅子が4個置かれている。

片側のベンチに8人両側で16人、その間の丸椅子に4人。

その他4、5人の男たちが立ったままトラックの後部にしがみつき、

幌の上には溢れんばかりの荷物を乗せて疾走する。

タウンジーまでの一時間ばかりの旅の同行者たちには橙色の僧衣を纏う若い僧侶たち、

小さな子連れの母親、友達同士かそれとも姉妹とも思える娘たち、年配の女性にそして後部にしがみつく男たち。

腕や脚、からだのどこかが必ず人と接する狭い荷台の席で言葉をかけなくてもお互いを気遣う。

わたし一人、違う母国語を持つ者として言葉なくそこに混じる。



「ひとりで寂しくないですか?」と聞かれもするけど、

公共の交通機関に乗ればその道のりと時間は乗り合わせた人たちと一緒だし、

宿にも働いている人も泊まっている人もいる。

そして私は布を探して歩いている。それは何時でも何処でも、誰かを探して旅しているようなもの。





2014・04・11 タウンジーで







女たちの旅 ~ミャンマー ニャウンシュエより~



アジアの旅を始めた頃、もちろんそれは随分昔のことなのだが、

「どうして日本人の若い女性は一人で旅をするの」と旅先のアジア人からも欧米人の旅人からも尋ねられることがあった。

わたしはすでにけして若くはなかったのだが、まぁまぁ若くも見えたのだろう。



その頃は今よりもバックパッカーも多かったような気がする、そして一人で旅する日本人女性の姿もよく見かけた。

もちろん欧米人の女性も多く旅していたが、肌や髪や目の色も違い、体もアジア人に比べて大きく英語を話す。

一人で旅をするはっきりした強い意思と態度があるように思え、アジア人の目から見ると個性が立っていた。



その一方日本人女性は体も小さく見た目には幼く、そのうえ英語を話せない。

いつもなんだかはっきりしない曖昧な態度に思えることが多いようで、

なぜそんなひよわそうですぐに騙されそうな女性たちが好んで一人で旅するのかと、疑問が沸くのも当然かも。

そのときのわたしは、その質問の答えに返事をすることが出来なかった。

それは語学力の問題だけではなく、私自身も不思議に感じたからだ。

アジア諸国において経済的に優位であることが日本女性の旅を後押ししているのは確かだけど、

お金の問題それだけではないと知ったとき驚きもしたが妙に納得もした。



宮本常一の「忘れられた日本人」の中に“女の世間”という章がある。

そこでは女性たちが割合と自由に旅をしていたことが書かれとても興味深い。

村の娘たちがお金も持たず、歩いて旅し、

善根宿という気軽に泊まれる場所があり、食べるものがなくなれば和讃や詠歌をあげてものもらいをするとある。

これら女性の旅は遍路や奉公先へ向う旅だったり、または女商人だったようで、その記録は中世まで遡れるというから驚く。

数人でまたはまるっきり一人の旅もあったようだ。

交通機関も乏しくインターネットもない時代、

お金も持たずそれも女性だけで知らない土地を旅することが出来たとはなんて安全で女性に開かれた国だったのかと・・・。







日本では昔から女たちはたちは旅をしていたのである。

女性たちは旅をして旅の作法を身につけ見識を広めた。



バックバッカーとバックパックという言葉は欧米からの拝借品かもしれないが、

旅する精神は欧米の影響を受けて始まったことではなく、それは日本文化の一部であり、

逆に西洋の歴史では女のひとり旅、または女だけの旅などあり得ない行為だったようだ。

女性のあり方が西洋とも今の日本ともまったく違っていたことが想像される。



「はァ、そりゃ今にくらべれば、つろうもあったが、それでも旅をせにゃあならんことにして、したもんでごいすから、

それほどでもなかったんで、そりゃ今の旅は極楽じゃが・・・・・」(忘れられた日本人 P113)

と語った女は今の旅を知ったらどう思うだろう・・・。



始めてアジアを旅をしたときと同じように、バックパックとトレッキングシューズを今も愛用している。

すでにどちらも何回かは買い替えられ、そろそろスーツケーにしたほうが良いのかと、何が良いのか分らないのに考えたこともあったのだが、

変える必要性を見つけられなかったので結局そのままでいる。

まァ、りュックが背負えなくなったら考えよう、そのときは旅の仕方も仕事の仕方も変わる時であろうから。





けして若くはないアジア人の女性がバックパックを背負って一人旅している姿は人々の目にはどう映っているのだろう。

「どうして日本人の女性はひとりで旅するの?」

そんなことを聞かれることはずいぶん前からないけど。





2014・04・08 ニャウンシュエで