TEXTILE DIVER 布を探しに

布につながるすべての感覚をひろげて 

遊びと仕事

村の中央にある、丁寧に平石を積み上げた茅葺屋根の下で忙しく手を動かして籠を編む女たち。その周りでじゃれるように纏わりつく子供たち。

誰が母親で叔母で従妹で姉妹なのか、女であるならばすべての村の子供たちの母になる。

太陽が傾き辺りが薄暗くなってきたころ、甘え顔で遊んでいたセミやほかの子供たちが先を争うように家畜の柵へと駆けてゆく。

何事かと見ていると、地面に無造作に投げ出してあった木の棒を拾い、くり貫いた家畜の餌入れを激しく叩き始める。小さなからだは、その腕が折れてしまうのではないかと思えるほどに力を込めて棒を振り下ろす。

木を叩く不規則な音は静かな村の夕暮れの時間を振動させ響き渡る。風・水・土・木・・・に一日の喜びを伝え、山を谷を越えて暮らす人々とその感謝を分かちあうかのよう。

籠を編むリウに「なんの遊び?」と尋ねると、「朝、放牧に出した豚を柵に帰ってくるように呼び戻しているの」

家畜の柵へ駆け寄り、木の株に足を掛けて柵の中を覗くと、開いた扉から豚たちが次々と入ってくる。

「毎日?」「毎日」「いつまで?」「豚がみんな戻ってくるまで」。前の子が疲れて棒を投げ出せば、それは交代の合図。子供たちは順番を待ちきれないようで、大喜びで豚に家に帰ってくるように知らせている。

“豚呼び遊び”

遊びと仕事の境界線はどこにあるのだろう。子供たちは村での生活のための重大な役割を果たしている。そしてその行為は悦びに溢れている。

伝統的な村の生活では建物の配置や仕事の内容から男女の領域が守られている。

子供たちも村の一員として、自分たちの村での居場所をしっかりと確保している。

スンバ コディの子供たち

スンバ島西側、コディにある小さなモスリムの村ペルに宿をとる。夕方涼しくなったころ、歩いて数分の海岸線に向かう。両脇にポツリポツリと家の並ぶ細い田舎道には、同じように海を目指す村人の姿がある。夕陽が何も視界を遮るものがない水平線の彼方に沈むまでの時は、村人にとっても一日の疲れを癒す穏やかな時間。砂浜とマングローブに保護された自然の入江にある桟橋では裸の子供たちが大はしゃぎで走り回り、2・3メートルほどの高さだろうか、勢いよく海に飛び込んではまたは駆け上がって来て飛び込む。そんなようすを頼もしくながめる余所者のわたしの存在は子供たちをますます興奮させるよで、さまざまな飛び込みのポーズを披露してくれる。桟橋の上でも、海の中からも写真を撮るようせがまれ、その都度濡れた体で駆け寄ってきてはデジタルカメラの画面をのぞき込み満足げにまた一人二人ととびこんでゆく。

この疲れ知らずの飽くことのない、子どもたちの自然への魂への純粋な喜びの働きかけ。

こんなふうに・・・布に働きかける。

母がつくった子供服 ~岩立フォークテキスタイルミュージアム~

ーインドから日本までー

2016年4月7日ー7月16日 木・金・土曜日 10時ー17時開館



”小さい”それだけで可愛く、愛おしくなる。そしてどれだけ一杯の母の思いがここに込められているのだろう。

民族にとって、人類にとって、子供はこの先の時間へとバトンを運んでくれる大切な走者。

壁一面に展示されている服が子供服とわかるのは、それらの身頃も首回りも袖も小さくて大人には着用不可能なサイズで、服が子供の形をしているからであるのは言うまでもない。

人の形に布を縫製せず、一枚の布をそのまま纏ったり巻いたりする民族間では、この子供服と呼べるモノとの出会いはなかなか難しい。ティモールでも、布を筒状に縫い合わせたサロンを女の子が巻いている姿を見かけはするが、そもそもサロンは身体にピッタリとしたサイズのモノではなく、ある程度幅がありその余分な部分を折り込んで着用するので身に着けている姿を見れば子供用となるが、脱いでしまうと"子供用"ははずれてただの筒状の布となる。ましてそれが一枚の布ならば子供でも大人でも巻き方次第で纏うことができ、身体を離れてしまうと一枚の布としか目には映らない。"衣装"という概念からすらはずれてしまう。

子供のための服とされるものでも、特別な儀礼用の晴れ着でもない限り、日々の着用では痛みやすく、また古くなった大人の服の使える部分を仕立て直して着せたならばそれはボロボロになるまで、またはその兄弟へと譲られ布の命を全うし、カタチとして残るはずもない。

加えて大人用か子供用かの判断を鈍らすのは東南アジアの人々の体格で、小さいので子供サイズと思いきや大人のものであったりする。大人という括りも子供を産める年頃になればそれは伝統社会では成人と見なされる場合も多く、いつまでも子供ではいられない。

こうして考えて見ると子供用とは幼児服で、東南アジアの一枚布の民族衣装には形として現れにくく、また民族服飾としてもなかなか残りにくいことに改めて気付く。

まして熱帯アジアの暮らしでは子供たちは本来裸でもへっちゃらなのだから。

そういった意味でも貴重な展示会。







田中忠三郎さんの「物には心がある」のなかで生命の布「ボド」ー「座産」のお話しがある。

《この世に生まれてきた子供はまず「ボト」に包まれた後、その集落で病気知らずの健康で元気なお年寄りから借りてきた着物で体を包まれる。当然、その着物にはその持ち主の長年の汗と汚れが染みついている。》



物には心がある。消えゆく生活道具と作り手の思いに魅せられた人生

生命の布「ホド」ー「座産」より

田中忠三郎