ーインドから日本までー
2016年4月7日ー7月16日 木・金・土曜日 10時ー17時開館
”小さい”それだけで可愛く、愛おしくなる。そしてどれだけ一杯の母の思いがここに込められているのだろう。
民族にとって、人類にとって、子供はこの先の時間へとバトンを運んでくれる大切な走者。
壁一面に展示されている服が子供服とわかるのは、それらの身頃も首回りも袖も小さくて大人には着用不可能なサイズで、服が子供の形をしているからであるのは言うまでもない。
人の形に布を縫製せず、一枚の布をそのまま纏ったり巻いたりする民族間では、この子供服と呼べるモノとの出会いはなかなか難しい。ティモールでも、布を筒状に縫い合わせたサロンを女の子が巻いている姿を見かけはするが、そもそもサロンは身体にピッタリとしたサイズのモノではなく、ある程度幅がありその余分な部分を折り込んで着用するので身に着けている姿を見れば子供用となるが、脱いでしまうと"子供用"ははずれてただの筒状の布となる。ましてそれが一枚の布ならば子供でも大人でも巻き方次第で纏うことができ、身体を離れてしまうと一枚の布としか目には映らない。"衣装"という概念からすらはずれてしまう。
子供のための服とされるものでも、特別な儀礼用の晴れ着でもない限り、日々の着用では痛みやすく、また古くなった大人の服の使える部分を仕立て直して着せたならばそれはボロボロになるまで、またはその兄弟へと譲られ布の命を全うし、カタチとして残るはずもない。
加えて大人用か子供用かの判断を鈍らすのは東南アジアの人々の体格で、小さいので子供サイズと思いきや大人のものであったりする。大人という括りも子供を産める年頃になればそれは伝統社会では成人と見なされる場合も多く、いつまでも子供ではいられない。
こうして考えて見ると子供用とは幼児服で、東南アジアの一枚布の民族衣装には形として現れにくく、また民族服飾としてもなかなか残りにくいことに改めて気付く。
まして熱帯アジアの暮らしでは子供たちは本来裸でもへっちゃらなのだから。
そういった意味でも貴重な展示会。

田中忠三郎さんの「物には心がある」のなかで生命の布「ボド」ー「座産」のお話しがある。
《この世に生まれてきた子供はまず「ボト」に包まれた後、その集落で病気知らずの健康で元気なお年寄りから借りてきた着物で体を包まれる。当然、その着物にはその持ち主の長年の汗と汚れが染みついている。》
物には心がある。消えゆく生活道具と作り手の思いに魅せられた人生
生命の布「ホド」ー「座産」より
田中忠三郎