TEXTILE DIVER 布を探しに

布につながるすべての感覚をひろげて 

子供用、それとも大人?



48✖️44(筒幅) VS 44✖️46(筒幅)㎝

向かって左側はティモール・アマヌバン地方の幼児用腰衣。そして右は中国 海南島リ族の成人女性用の腰衣。

形状とサイズはほぼ同じ筒型に縫われた2枚の腰衣、しかしながら着用者は全く異なる。幼児が巻けば下半身をすっぽり包み込むスタイルだけど、成人女性ならば超ミニスカート。ティモールのモノを海南島のリ族に見せれば彼女たちは間違いなくミニスカートとして着用するだろうし、海南島のモノをティモールの人たちに見せれば彼女たちは疑うことなく幼児用と思うだろう。いつか個々の布をそれぞれの場所に持ち込んで人々の反応を試してみたい。多分みんな目を丸くして驚くだろう。

蜂蜜用の桶 ロンボク

布を探しに中央ロンボクに向かう。幾枚かの古い布を見せてもらうことは出来たのだが、ギュッと胸を捕まれるまでには至らなかった。「布ではないですが古いものがあります」と運ばれてきたのは水牛の皮の桶で、口部分には籐が巻かれ紐を通すためのループが4箇所に付いている。なんのためのモノかとたずねると蜂蜜用の桶で"リンガ"と教えられた。もう随分長くこのあたりをウロウロしているが蜂蜜採取には通常パーム椰子の桶を利用していて、水牛の桶は初めて見た。もう一つの桶には口部分に藤は巻かれず底に穴が空いていた。これは中に石を置いて米を搗くもので、そのため底に穴が空いてしまっていると。

以前、スンバ島でも水牛の桶を見たことがある。それはやはり中央に石を置いてトウモロコシを潰すためのモノであった。バリから東に列なるロンボク、スンバワは稲作文化だが、その先のフローレス、スンバ、ティモールはトウモロコシを主食としている。

器や桶を作る自然の材料としては木、竹、ココナッツの殻、パーム椰子の葉、そして動物の皮などで、それらは大きさや形で用途は分けられ、必要によって作られる。しかしながら現代社会のモノのように"何用"と使い方が始めから他者によって提案されているものでもない。言いかえれば、器・桶として入れたいモノを納める機能を備えていればいいのだ。そこで疑問が湧いてくる。ロンボクでしか見たことのない蜂蜜用と教えられた水牛の皮の桶は本当に蜂蜜を納められたのだろうか。紐を通すループが付けられているので、どこかにぶら下げる必要のあることは確かなのだけど。すでに過去のものとなってしまった今、もう少し検証の必要がありそう。



織りの道具"刀杼"

ティモールでは"セヌ"、ロンボクでは"ブリドゥ"、日本では刀杼と呼ばれる織りの道具。刀杼は織手の腰で経糸の張り具合を調整する原始機や腰機の緯糸を打ち込む道具で、硬質な木を実に刀の形に削ってある。

「ロンボクでは寝るときにこの刀杼を家の入り口に立てかけて置く」と何気ない話しを聞き、なぜ今までそのことに気付かなかったのかと自分を疑う。女の仕事である織りの道具の形はまさに木刀そのもので、それは充分に護身具になる。

女性の護身具として即座に思い浮かぶのはやはり簪であろう。髪に飾られる美しい装身具の一方は鋭利な切り先になっている。また櫛は古代から魔を払う力があると考えられたいた。

女性にとっての大切な織りの道具は彼女の命も守り、大切な女性の髪をまとめる櫛もまた同じように彼女の命を守る。道具や装身具、モノとヒトの忠実な信頼関係。自分の身の回りを見直してみる。



ロンボク ササック族

バリのパダンバイ港からロンボク島のレンバーまでは90分間隔でフェリーが出ている。所要時間約4時間のロンボク海峡を渡る旅、この海峡には見えないウォーレス線が引かれている。ウォーレス線は博物学者ウォーレスによって1868年に発見された生物分布の境界線でロンボク海峡を隔て東と西で動植物相が変わる。一万七千ともいわれる島々からなるインドネシアはその島ごとに独自の文化を形成する民族が暮らし宗教も異なる。西から東に向かって横断してくるとスマトラ、ジャワのイスラム色は、バリに入るとバリビンドゥ教に一変する。ウォーレス線を越えてロンボクに入ると、また何か違う雰囲気は体で顕著に感じる。

ロンボクの主要民族ササック族はワックトゥ テルと呼ばれる原子宗教を信仰していた。その中心は三位一体の概念で太陽、月、星を象徴する。1965年には政府の圧力によりイスラムに改宗はしたが、その根底には原始宗教が色濃く残っている。その上にロンボクには隣島のバリ人も多く暮らしヒンドゥー文化も小さな一つの島に共存する。これらの様々な要素は織物にも明確に現れる。偶像崇拝の禁じられているイスラム教であるにも関わらず人型や生きものの模様があったり、またバリヒンドゥーの織物と似ていると感じる布も多々ある。いつの時代でも本来民族文化は交われば交わるほど洗練され進化を遂げる。だだし注意しなければならないのは、しっかりとした基盤がなくてはならない。そうでなければすべての魅力も意味合いも失い、時代のなかで消耗されるモノとなってしまう。



ロンボク島 リンジャニ山周辺に暮らすササック族の"サンパリ ジャラン"と呼ばれる織物。

ロンボク島の馬車

ロンボクのアンぺナン市場周辺では、買い物を終えたご婦人たちの荷物を運ぶためにまだまだ馬車が活躍している。御者、またはその家族のお手製と思われるピンクに青に緑の布に色ボタンが縫い付けれれたメンコが愛らしい。馬車はロンボクの言葉で"チドモ"と呼び親しまれている。

ティモールからやって来たペルーの布

インドネシアに入って2週間が過ぎた。

日本出発直前に、ご紹介もあってしばらく仕舞い込んだままになっていたアンデスの箱を久しぶりに開いた。2009年にペルーとボリビアを一ヶ月間旅した時に蒐めた布。アジアの布を扱う私が、突然アンデス行きを決めたのはティモールの布たちの色使いや織りの技術が、近隣のアジア諸国よりもアンデスの織物にどこか似ていると感じていたその答えを見つけられたらとの思いからであった。"ペルー・ボリビア"と書かれた箱は、ここ最近ではなかなか展示する機会を持てず久々に並べて触れる布の手触りや模様、色彩にアンデスの旅の記憶が蘇る。なぜかインドネシア行きの前にアンデスの布と戯れていた。

バリに着くと友人から、珍しいティモールの布が入ったから見に来ないかとの連絡を受けた。

一体どんな布なのだろうと出かけて行くと、インドネシアの布の中に一枚アンデスの布が混じっている。友人の説明ではベル地方のモノで馬衣として使われてたという。

情報がなく布を知らなければ、出会った場所が出生地として紹介されることは多々ある。ティモールのベルで出会ったこのアンデスの布の村人の話しを、友人がそのままに信じたことは想像に難しくない。多分その布の所持者である村人でさえ、祖先から受け継いだ大切な布であること以外の情報はなかったのであろう。

わたし自身もティモールとアンデスの布に共通点を感じているのだから、そのアンデスの布は誰にも疑われることなく村に存在していたと思われる。

ティモールのベル地方周辺はカトリック信仰で、ペルー・ボリビアも同じカトリック。それらのことを思案すると、宣教師が持ち込んだと想像してみるのはそれほど的外れなことではない。

わたしは出かける前に戯れたアンデスの布の引き起こした不思議な巡り合わせに、人が動いてはじめてモノも移動する事を再認識させられた。





写真は所有するボリビア スクレ タラバコのロバの背当てです。バリで見せていただいた布ではありません。