世界の刺繍展が文化学園服飾博物館で開催されている。1階は日本のもの、2階はヨーロッパ、東南アジア、南アジア、アフリカと全35か国の刺繍は模様も配色も衣服の形状もさまざまで見応えがある。刺繍は美しく飾る人間の欲求を忠実に適えてきた。それら装飾性の高い、見る人誰もが疑うことなく即座に美しいと感じる刺繍の歴史は針への信仰なくして語られない。
日本で最も古い針は動物の骨から作られ、縄文の遺跡から出土されている。縄文人は皮を縫い合わせたり、編布の貫頭衣を針で仕立て、それらの衣装には何らかの模様が施されていた。そして彼らは同時に入墨の文化も持っていた。
布に針を通して糸を刺すのが刺繍なら、肌に針で傷を付けて色を塗りこむのが入墨。刺繍と入墨は同じ針という道具を使用し、衣服への刺繍と人間の肌への入墨の模様を刺すという働きかけは他の染織品、例えば織物や編物よりもより深い共通性と関係性を持つ。
現代科学では解明されている様々な自然現象も、神話が語るように古代の人々は想像力によってそれら困難を乗り越えてきた。人間として生まれ持った体に入墨という加工を施し、超自然な力を取り込み、呪術や魔除けとして身を魂を守る。また入墨は現代の鍼治療とおなじ医学的な根拠に基づいた施術でもあったと報告されていることも興味深い。
もちろん入墨の針は先端が尖っていればいいのに比べ、糸を通す針には穴が開いていなくてはならない。そして刺繍はこの穴の開いた針の力なしでは不可能で、針仕事をする人にとってこの細くて小さな針は重要な道具になる。以前も書いたが、松岡未紗さんの「衣(ころも)風土記 Ⅰ」(法政大学出版局)の中にアイヌの女性が開拓地の人と、アツシ一枚と二本の針を交換した話がある。また刺繍文化圏では肌身離さずに針をもち歩くためのからだに下げる容れものもあり、それはお守りのようでもあり、現実もし失えば本人に不幸をもたらすことになる。この小さな針を失った者はどうして刺繍をすればよいのだろう。
いつも感じることは、美しさとは途方もない忍耐力と信仰心が礎になっている。そして美しい布を身につけることで及ぶ精神への影響は、呪術と等しい効き目なのかもしれない。
